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谷本賢一郎――楽しませること、聴かせることの素敵な関係

谷本賢一郎――楽しませること、聴かせることの素敵な関係

ある時は「歌のお兄さん」、ある時はシンガーソングライター、ある時はアーティスト。そんなユニークな経歴を持つ谷本賢一郎のミュージシャンシップ、またエンターテイメント精神がどこから来るのかインタビューを試みた。



自分が必要とされている上で、どう楽しんでもらうかが大事


NHK Eテレの『フックブックロー』けっさくくん役で知っている人も多いと思う。兵庫県出身の谷本賢一郎。ザ・ビートルズで音楽に目覚めた彼は、大学生になってプロの道を志すように。その後、埼玉で就職~退社~東京でアルバイト~コント集団所属という歩みを経て、現在はたくさんの親子を笑顔にするシンガーソングライターになっている。しかもファミリーコンサートのみならず、フジロック・フェスティバル、ニューアコースティックキャンプといった野外フェスにも参加するなど、誰もがイメージするような「歌のお兄さん」とはまったく異なるスタンスで活動を行っているのである。今回はそのキャリアを改めて振り返ってもらった。


歌が歌える場所だったら、どこでも

行こうと突き進んだ結果が今


――谷本さんの昔のインタビューも読みましたが、経歴が面白いですよね。


谷本賢一郎(以下、谷本) ミュージシャンらしくない経歴というか、今でもミュージシャンなのか自分でもよくわかってないけど、変だと思います(笑)。


――でも「歌が好き」という軸はブレてないと思いました。


谷本 歌が歌いたい――この思いだけで、音楽の世界にしがみついてきたので、歌が歌える場所だったらどこでも行こうと突き進んだ結果ですね。でも、もともとこんなに活動の幅を広げようと思ってたわけじゃないんです。最初は純粋にアメリカンポップスとかカントリー調の音楽をやりたいと思っていて。


――そういった音楽を好きになったきっかけは?


谷本 小学校の頃はテレビから流れてくる歌謡曲を聴いていたけど、中学校の時に友達のお兄さんがザ・ビートルズを聴かせてくれて、その時に「まさにこれだ!」という衝撃がありました。エレキサウンドや生々しいドラムの音がズンときて、それからはビートルズばかり聴くようになって、彼らはどんな音楽を聴いてきたんだろう?と思って、1950年代の音楽を自分も聴くようになったんです。僕は兵庫県の小さな町で生まれたので、周りにミュージシャンや芸能人になった人がいなくて、時代は違えど夢の世界に見えました。僕は軽音楽部に入ってバンドを組むというタイプでもなかったので、一人で弾き語りをして歌う程度で。卒業後は長野県の大学に進んだけど、「やりたいことがある」というよりも「家からなるべく遠いところに行きたい」という思いで進学して、相変わらずアパートの部屋の中で、ひたすら一人弾き語りをやってました。


――その間、ビートルズは繰り返し聴いていたんですか。


谷本 はい。友達から借りたアルバムをカセットテープにダビングして何度も聴いてました。アルバムの曲順すら言えるくらい(笑)。そのぶん、いろんな音楽を聴くようになったのは遅かったですね。東京に出てからボブ・ディラン好きのマスターのお店で働くようになって、そこでたくさん新しい音楽を知りました。激しい音楽より、カントリーやフォーク・ミュージックが多かったような気がします。


――歌で勝負していきたいと思ったのはいつ頃から?


谷本 大学時代、一度留年した時があって、その時にお花見の会場で友達から「この人前で歌ってみろ」って言われて歌ったのが忘れられなくて。ビギナーズラックかもしれないけど、その時は40分くらい歌って、最初から最後まで大盛り上がりだったんです。人も集まって投げ銭もいっぱい入って……そこからです、勘違いが始まったのは(笑)。もしかしてこれはいけるんじゃないかなって思いましたね。


――活動の拠点は路上で?


谷本 当時はバンドも組んでないし何のツテもないから路上で歌うのが一番手っ取り早かったんです。「歌ってダメなら家に帰ろう」くらいに思ってました。そんなことを繰り返してたら知り合いができて、イベントにも誘ってもらう機会も増えて、ある日ライブに飛び入りで参加したことがあるんです。その企画をしていたのがザ・ニュースペーパーっていう社会風刺コント集団の社長で、僕のことを面白いと気に入ってくれて、東京で開催しているお笑いのイベントに出演枠をくれたんですよ。投票形式で出演者の芸人の中からチャンピオンを決めるイベントで、「その集計の間の10分間、お前のコーナーをやるから好きに歌っていいよ」って。そこから2年間、留年中もずっとステージに立ちました。


「このまま東京でミュージシャンになるぞ!」って思ってたんですけど、2年目でイベントの企画自体が終了しちゃったんです。社長は「東京でまたやる気があればいつでも顔出しに来い」って言ってくれたんですが、そこでちょっと縁が途切れてしまって、自分としても「行けるはずだ」って思ってたのにツテがなくなってしまった不安もあって、焦りから一度就職したんです。でも、田舎の兵庫に戻るより少しでも東京に近いところを……と思って、埼玉県草加市の空調機器メーカーの設計部に就職したんです。自分の中ではそこで働きながら時々東京にライブを観に行こうと思っていたのに、実際働いてみるとそうはいかず、結局自分の部屋で歌うだけっていう本当に煮え切らない毎日でした。親も僕が音楽をやっていることを知らなかったし。


――そんな悶々とした日々の中でも、心のどこかでは「歌手として独り立ちしたい」という思いはあったんですよね。


谷本 正直自分でも甘い考えだと思うんですけど、何になりたいのか分からないまま設計会社という厳しめの会社で働いてみて、いろいろ分かったんです。設計とかの専門的な領域って、本当に好きでやってる人は違うんですよ。暇があれば専門誌を読んでる……みたいな感じで。そういう現場を2年間見ていて、自分の限界を感じました。果たして自分はこれでいいのか、一度くらい自分がやりたいと思ったことでちゃんと勝負したほうがいいんじゃないかって思って会社を辞めました。


その後、さっき話したボブ・ディラン好きのマスターのお店で働くようになったんです。学生時代、あまりディランは聴かなかったんですけど、ビートルズと同年代の音楽なのですぐ好きになれました。お店で働いてから人前でも歌うようになったけど、だからと言って急に人が聴いてくれるかっていうとそうはいかなくて、50人くらい入るお店でお客さんが0人とか、友達含めて3~4人しか呼べない日もあって、それを3年くらい続けたら本当に心が折れてしまって、もう田舎に帰ろうと思っていたんです。


――そうだったんですね。


谷本 そんな時、ニュースペーパーの社長と再会して、「替え歌で芸をするというコンセプトで、うちで歌わないか」って声をかけてもらえたんです。自分でもその頃「自分はもっとできるはずだ」ってどこかで思っていたのですが、なかなか多くの人に聴いてもらえる機会がなくて、とにかく人前でやらせて欲しいってことでニュースペーパーのステージに立たせてもらったのが30歳の頃ですね。そこで観客の方に楽しんでもらうコツだったり、替え歌は特にオチが必要なので笑いを取るコツだったり、本当に多くのことを学びました。僕は何より人前で歌えることが嬉しかったので、この状況が続けばいいなと思ってましたね。


そしたらNHK Eテレの『フックブックロー』担当の方から「子ども番組で歌って欲しい」というお話をいただいて、今までの替え歌とも違うし芝居もしなくちゃいけないけど、とにかくやりたい!と思って、番組に携わるようになりました。音楽担当は服部隆之さんで作詞は山川啓介さん、大御所だらけでレコーディングもすごく厳しくて……それらを通して、気持ち的にも「替え歌で喜んでもらいたい」って想いから、オリジナル曲や童謡で「きちんとした言葉を届けたい」って想いに変わったんです。それを機に自分は何がしたいのかを深く考えるようになって、40歳で10年間在籍したニュースペーパーを辞めました。自分が本当にやりたいことをやろうということでリスタートして、そしてサルナンデスに出会ったんです。




スーパーサルナンデスからは

 「歌で遊ぶ」ってことを教えてもらいました


――muevoでクラウドファンディングを実施したスーパーサルナンデスのことですよね。


谷本 最初にプロデューサーから言われたのが「今までのタニケンとは違う色を出して欲しい」という要望で、正直それを聞いた時、キワモノ系なのかな……って思ったんですよ(笑)。周りが全員サルで、僕だけ人間。どんな歌を歌えばいいのかイメージできなかったので、実は一回断ったんです。ただでさえ今までの経歴も振れ幅があるのに、引き受けてしまったら何をやりたい人なのかがわからなくなってしまうからって。そしたら「いや、これはふざけているように見えるかもしれないけど、自分じゃ気づかない良さって絶対にあるから、一度やってみて嫌だと思ったら辞めていいから」って言われて。で、確かにそこで挑戦する人としない人の違いってあるよなって思いながら、僕自身も何か一筋でやってきたわけではないので、それならやってみようと。それで実際にやってみたら……これがまた面白かったという(笑)。




転職ヒエラルキー(ロックンヒエラルキー)

 スーパーサルナンデス feat. 谷本賢一郎

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「サスペンスキッス」っていう曲があるんですけど、この曲からは「歌で遊ぶ」ってことを教えてもらいました。歌詞の中で「実際には不倫なんてしちゃダメだけど、歌の中の世界だったら自由に楽しんでいいんだよ」っていう表現をしていて、そういうことができるようになったのはサルナンデスがあったからこそです。『フックブックロー』の頃は「自分の純粋な部分とか、子どもの時の気持ちを思い出そうよ、そんなに頑張らなくてもいいんだよ」っていうメッセージがありました。逆にサルナンデスは「人間、もっとダメでもいいじゃん」「人間には悪い部分もある」ってことを打ち出してるので、それは大きな違いですね。プロデューサーからは「本当にやっちゃまずいけど、歌の中では遊べるんだから最高だよ」って言ってもらえて、だったら「もっと自分の音楽も遊ばなくちゃ、もっともっと聴いてくれる人がドキドキワクワク、妄想できるような音楽にしよう」って思うようになりましたね。


――なるほど。


谷本 これからの自分の音楽には、そういう部分もなければいけないなと。でも基本はしっかりとした歌を届けて、聴いてくれる人が「また明日も頑張ろう」って思ってもらえるような作品にしたいです。今後もお話を貰えればいろんなことに挑戦したいですし、音楽とは枝分かれした活動もあるのかもしれないけど、まずは「歌」を大事にしたいですね。


――谷本さんの場合、経歴ゆえに歌のアウトプットが多彩だと思います。


谷本 はい。ニュースペーパーの時は寄席で歌ったこともあるし、「New Acoustic Camp」 っていう野外フェスでは、BRAHMANのTOSHI-LOWさんと一緒にステージに立ったし、これだけの振れ幅を持ってるのは珍しいと思うので、そういうところも自分で楽しもうかなって思ってます。


――TOSHI-LOWさんとの組み合わせは意外でした。


谷本 ですよね。きっかけはキャンドル・ジュンさんなんです。ジュンさんが主宰するLOVE FOR NIPPONというチームが毎月11日、福島県でボランティア活動をしているんですけど、現地の人にどれだけ楽しんでもらえるかってことを考えていて、何かメッセージを発信するのではなくて、行動自体がメッセージになっている。その活動に自分も可能な限り毎月参加できるように考えています。そこで、TOSHI-LOWさんに出会ったんです。年齢は同じなんですけど、逆に生き方が違うからこそ面白いなと。


――30歳まで悶々としてきた甲斐がありますね(笑)。


谷本 アハハ。そうですね、悶々していた時代が長すぎたので家族にはだいぶ反対されましたよ。歌ってプロとアマチュアの境界線がすごく曖昧で、自称「歌手」だと名乗ってしまえば歌手になれるし……一歩間違えると自分もそう見られてしまうのを知っているので、怖い世界だなって思います。


――そう考えると縁って大事ですね。


谷本 縁で人生が変えられた部分もたくさんあって、僕の中で一番転機だったのは上々颱風のリーダー、紅龍さんとの出会いですね。最初の出会いは、僕が働いていたお店にお客さんで飲みに来てくれていて、「歌手目指してます」って言うと「歌ってみろよ」「お前みたいなヤツ、どこにでもいるぞ」「売れるわけないだろ、そんな歌詞」なんて言って僕のことをあつらいながら、「じゃあなにか一緒にやってみるか」って言ってくださって。誰にお披露目するというわけでもなく、ボブ・ディランの曲を日本語にして歌ったりしていました。すると「ああ、こういう気持ちで弾き語りのストーリーを作ればいいんだ」とか、歌の真の面白さとか、そういったマニアックなことは紅龍さんとやっていて学びました。


プロになりたいっていう漠然としたものが、身近で人を喜ばせているミュージシャンを目にして明確になったというか、とにかく四六時中一緒にいたので紅龍さんの生き方も含めて影響されました。その後、僕自身もニュースペーパーで人を喜ばせることを体感して、『フックブックロー』では歌の大切さを学んで、すべてご縁があってのことなのでこれから先に出会う人も楽しみですね。


――バンド形式にこだわりはないんですか?


谷本 そうですね、というかバンドをまとめる自信がなくて。どうやら僕、人に自分の気持ちをベラベラと話せない頑固タイプらしくて、一人で考え込んで熟成させちゃうんです(笑)。皆で同じ気持ちを共有することが難しかったので、バンド的なサウンドは好きなんですけど、やりたくてもできなかったっていうのが一番の理由ですかね。メンバーの生活を考えたり、金銭的なことも考えたりしなきゃならないので、僕にはハードルが高くて……縁があれば変わるかもしれないですけど。


――音楽との関わり方はとてもシンプルですよね。


谷本 紅龍さんに昔よく言われたのが、「お前なんかいなくたって世の中困らない。それでも歌いたいなら、とにかくこの世界に入って苦しめ。そして世の中に受け入れられるためには、自分に何が求められてるのかを考えろ。金がなくても頭で考えるのはタダなんだから」って言葉が、ずっと頭に残ってるし今も常に考えてますね。だからライブに呼んでもらえて、ただ嬉しいって思うだけじゃなくて、自分が必要とされている上でどう楽しんでもらうか、どう喜んでもらうかが大事だと思います。


――音楽家としての矜持みたいなものを紅龍さんに学んだとしたら、「どうやって楽しんでもらうか?」という姿勢はニュースペーパーから学んだんでしょうか?


谷本 そうですね。音楽は雰囲気的なものに客席が反応することも多いですけど、お笑いはその時に自分が発した言葉がそのまま会場の反応につながるというか、常に瞬間的な反応を考えるようになるんです。歌で言うと、強弱だったり言葉の言い回しだったり、相手にどう届けるかをすごく考えるようになりました。そういう感覚はお笑いをやっていなかったら経験できなかったことだと思うし、逆に歌で世界観を作るということにつながりましたね。


――確かに普通のミュージシャンじゃ知れない世界ですね。


谷本 こうしようと思ってこうなったんじゃなくて、結果的にこうなっただけというか、ただ経歴は変だよなって自分でも思います(笑)。



これからも曲を作り出していきたいし、

いろんなことやりたい欲求は尽きないです


――谷本さんが音楽で伝えていきたいことは何でしょうか?


谷本 あえて深い思いを伝えすぎないことは意識してるかな。「この曲に救われて生きようと思った」って曲もありますけど、もっと身近で軽い音楽があってもいいのかなって思うし、そういう意味でも「そんなに頑張らなくていいんだよ、のんびり行こう。明日も頑張ろう」ぐらいの気持ちです。とにかく笑ってほしいんです、僕は。自分は好きなことを仕事にできて、すごくラッキーだし、どんなに嫌なことがあってもステージで発散できたりするけど、周りにはそうじゃない人もたくさんいる。仕事がすごくストレスになっていたり、子育てに疲れたりしてる人もいると思うんです。なので、自分の音楽を聴いてくれる人と直接会えた時は、歌で皆とつながって、今この時間をとにかく楽しんでもらいたい。そして次の日を生きる力に少しでもなればいいなって思ってます。


――今後の活動について、何か考えていることはありますか?


谷本 直木賞作家の道尾秀介さんという方がいるんですけど、最近、僕のバンドメンバーにボーンズ奏者として参加してもらっています。道尾さんには演奏だけでなく、曲作りなど一緒にいろんな面白いことができたらと考えています。今までは別の方から頂いた曲かカバー曲が多かったので、自分の作った歌はあまり発表できてなくて……。でも今はすごく制作が楽しいので多くの人に聴いてもらいたいですね。これからも曲を作り出していきたいし、いろんなことやりたいっていう欲求は尽きないです。



インタビュー・文 上野拓朗(muevo)

写真 安達元紀


谷本賢一郎

1974年4月23日、兵庫県佐用町生まれ。信州大学卒業後、日本エアーテック株式会社に就職するも、幼少の頃からの夢だった歌手になる為退職し、2000年に上京。BOB DYLAN'S BAR マイバックページズで働きながら都内でのライブ活動を積極的に開始する。その後、上々颱風、大塚まさじなど、多くのミュージシャンや楽曲と出会う。2004~2014年3月まで、社会風刺コント集団「THE NEWSPAPER」に在籍。NHK Eテレ『フックブックロー』けっさくくん役としてレギュラー出演し注目を集める。BS12で放送中のキッズアニメ『JELLY JAMM』主題歌、挿入歌を担当。2016年3月にはNHK『スタジオパークからこんにちは』に生出演。全国でのファミリーコンサート、アコースティックライブに加え、『FUJI ROCK FESTIVAL'15』『NEW ACOUSTIC CAMP'15』『ACO CHILL'16』など野外音楽フェスにも出演し、活躍の場を広げている。『LOVE FOR NIPPON』など、ボランティア活動や、学校・保育園・幼稚園でのライブ活動もライフワークの一環として行っている。親から子への願いを込めた曲『なまえ』を代表に、各地で皆が笑顔になれるコンサートを展開している。


谷本賢一郎 オフィシャルホームページ

http://maimusic.net/


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