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多様化するヒップホップ、TwiGyが考える「本物」の意味

多様化するヒップホップ、TwiGyが考える「本物」の意味

現在、muevoで「【TwiGy】音源制作キャンペーン」を実施中のTwiGy。20年以上にわたり活動を続けてきた日本語ラップのオリジネイターの一人は、今まさにそのタイミングが来たと語る。クラウドファンディングというツールとともに、新たな一歩を踏み出したのだ。



新しい世代のアーティストがひしめき合う日本のヒップホップ・シーンについては、「今はファンの絶対数が違う。昔はマイノリティだったから」と語るTwiGy。そして「でも、俺のファンは今もマイノリティかもしれないけど(笑)」と笑った。多様化している現状をすべて受け入れることがヒップホップだと語る。そもそも、TwiGyの残した作品そのものが多様性の極みみたいなものなのである。ヒップホップ、レゲエ、R&B、ジャズ、ポップス、ロックなどを飲み込んだ音楽のスタイルは、キャリアごとに大きく変わる。今では商業ベースな活動とは距離を置き、己のスタンスでアート活動を行う。そんな彼が待望のアルバム制作に入るという。クラウドファンディングを使った今回のプロジェクト、彼の真意はどこにあるのか? TwiGyの盟友でもあるプロデューサーのB-Yas氏も同席し、インタビューに応じてくれた。


今はスモールサークル、ビッグドリームの時代


――先ほどまでWREP(日本初のヒップホップ専門ラジオ局)に出演していたそうですが、WREPの主宰者であるZeebraさんとは同い年なんですよね。昨年出版された自叙伝『十六小説』にも書いてありましたが、同世代のアーティストが今もいろんなやり方で活動している。刺激になりますか?

TwiGy それぞれ担当ってわけじゃないけど、俺にはできないことを別の人間がやってくれているし、自然と役割分担できてると思う。いろんな形で、みんなが成長していってるよね。

B-Yas さっき会ったWREPのディレクターも昔から知ってる人ですし、時代と場所が変わっても「ほんとにヒップホップが好きなんだな」っていうところは同じというか。

――久々に会って昔の話をする機会も多い?

TwiGy そうだね。俺自身もいろいろ記憶の断片を思い出すし、自伝を出す前と出した後では、人と人を結びつける力みたいなものが強くなった気がする。だから、このタイミングで自分もいい方向に行きたいなとは思う。

――TwiGyさんの創作のモチベーションって何が一番大事ですか?

TwiGy 状況によるよ。仕事の場合は締め切りがあるから、それまでにコンプリートしなくてはいけないだろうし、いかなる環境でも、どんな精神状態でも曲を作らなくてはいけない。そういう意味では、曲を作るインスピレーションって点で環境とか大事なんだと思う。でもオファーがどこからも来てないのに、突然インスピレーションが下りてきて1曲できる時もある。そういう時は何かに突き動かされてる感じはするね。

――じゃあ、世には出てないけど、そうやって生まれた曲があるってことですか。

TwiGy うん。俺はペンで紙にリリックを書くんだけど、中には無くしてしまったものもある。でも、頭の中にフレーズが少し残っていたりするから、後々それが別の曲で使われることもあったりして。そういう断片は多いかもしれない。

俺はもう20年以上リリックを書いてるけど、キャリアの後半からはすべて“ひらがな”で書いてるんだよね。なぜかというと、その方が韻を踏む時に追いやすいから。あと漢字と違って、意味が限定されない。だから言葉そのものからインスパイアされることも多くなるし……まあ、あんまり言うとネタバラしになっちゃうんだけど(笑)。

――アートっていうのは長く続けることで、だんだん深みが出てきたり、広がりも出てくるじゃないですか。そう考えると20年書き続けるっていうのは、すごいですよね。

TwiGy ずーっと勉強だね(笑)。今はトラップみたいなスタイルが主流で、その中でもKOHHやJinmenusagiとか、ラップが巧い若手も多い。その一方で、長く活動を続けることで、周りが無視できない状況を作り上げた紅桜みたいなラップもある。俺の場合、いろんなスタイルがあって、この時代のTwiGyが好きとか、あの時代のTwiGyが好きとか、昔からのファンと新しいファンがいて成り立つところもある。ライブもいろんな見せ方ができるから、長くやってきた者ならではの面白いものが作れると思うし、それを体現できるのが「本物」ってことなんじゃないかなと思う。


――『十六小説』には、90年代の来日アーティスト絡みのエピソードも載ってますよね。アメリカでヒップホップが盛り上がってきたのと並行して、今ではレジェントと呼ばれるような人たちが日本でライブを開催することも多かった。その原体験って今考えると、すごく貴重ですよね。

TwiGy NASがステージ脇に一人で立ってナーバスになっている姿とか見てたからね。「ああ、一人になりたいんだな」と思って、みんな静かにしてたけど。あと、YOUちゃん(YOU THE ROCK)、Mummy-D(RHYMESTER)、BLACK MANDAYの連中と一緒に明け方の青デニ(デニーズ南青山店)に行ったら、カウンター席でQティップが朝ゴハンを食べながら髪の毛をイジってるわけ(笑)。俺らもテンション上がったんだけど、邪魔したら悪いと思って奥の席へ移動したら、Mummy-Dが話しかけに行ってさ。「あいつ何だよ!」ってYOUちゃんが怒ったり(笑)。そういう経験があったのはラッキーだったと思うよ。

ゲトー・ボーイズが来日してTOKYO DOMEでライブするっていうから「は?」って思ってたら、ドームの向かいにある小さいクラブでやると。で、YOUちゃんが前座で出るっていうから、BLACK MANDAYとSOUL SCREAMになる前のHAB I SCREAM、E.G..G.MAN、ALG、SHIKIと一緒に行って。そしたらフロアに3〜4人くらいしかいないんだよ。心配になりつつ、俺も一緒に出たのか袖で見てたのか忘れちゃったんだけど、とにかく前座のステージで盛り上げたんだ。でもフロアの状況は変わらなくて、そんな中でゲトー・ボーイズが普通にステージ出てきて本気でパフォーマンスするんだよね。フロアはガラガラなのに。YOU THE ROCKは自分のリリックで「ゲトー・ボーイズ状態」ってフレーズを何かの曲に使ってたけど(笑)、その元ネタはこの出来事。客がぜんぜん集まらないって今だったら大問題だよね。向こうのエージェントに訴えられるよ。

90年代はストリートの連中がアテンドしてたから、アメリカではスター扱いされている奴も日本では規模の小さいハコにふらっと遊びに行くような感覚でライブをしてくれたと思うし、そういうのは当時ならではだよね。ヒップホップもレゲエもストリートと密接だった。だから、俺たちも海外のアーティストと話すことができたし、間近でステージを見て学べた部分もあったんだ。

――1998年にメジャー1stアルバム『AL-KHADIR』をリリースした後、ヴァージン・ミュージックでは自由に活動していた印象があります。アンダーグラウンドからメジャーへと変化していく過程っていうのは、どんな感じだったんですか?

TwiGy 俺がヴァージンに入った時は黄金の年で、宇多田ヒカル、椎名林檎がいたんだよ。EMIミュージックの括りの中では一応同期だから(笑)。で、その面々でショーケースを開催するということになったんだけど、DJ YASが大遅刻してきて俺が一番最後に登場した(笑)。当時の俺はメジャーになるとか契約の内容とか、あまり気にしてなかったから。例えば、中学校の頃に進路にさっぱり興味がなかったのと同じ感覚で、自分がどうなるのかっていうことをあまり考えてない。だから続けられたし、メジャーになったから自分の気持ちを変えようみたいなこともなかったね。実際、それまでと変わらず、メジャーでも実験的にいろいろやらせてもらえたから。ただ、シーンとともに渦中にいたから、当時の自分が何をやっていたかのっていうのを把握できたのは、最近だよ(笑)。本を書いた後くらいからジワジワ思い出してきた。みんなと再会して、当時の話をするとまた違うことを思い出したり、そうやって客観視できるようになってきたんだ。

B-Yas TwiGyに限らずですけど、当時アンダーグラウンドで活動していたアーティストたちは、レコード会社という白馬の王子様が来ようが来なかろうが、自分たちでやるという活動の軸があった。みんなメジャーに行っても軸を変えずにやるっていうスタンスが共通してあったと思います。自分たちのやってきたことの肯定というか、そういうのがメジャーにも認めてもらえた。それはラッキーだったなというのは、僕たちの世代にはありますよね。

TwiGy 経済的にもそうだよね。契約している間は、音楽活動だけしていれば生きていけるわけなんだけど、そんな環境で長くやれたのはラッキーだったなと思うよ。時代のバブルが弾けて、レーベルが変わっていく様子を近くで見ていたけど、1枚分のバジェットでアルバム2枚作らせてもらえたし、お互いに愛と理解のある仕事ができたんじゃないかな。最初は向こうもヒップホップをどう扱っていいのかわからなかったと思う。俺の音楽はメジャー用にお化粧する必要がなくて、もう既に出来上がってるものだから。でも、いろいろ初めての経験だからこちらの意思を尊重してくれたんだ。契約に関してもそうだよね。CDはメジャーでリリースして、アナログ盤は自分たちのレーベルからリリースするとか。普通、アーティスト契約したらリリースするものは全部レコード会社のものだからさ。でも、それが許されるケースもあるってことを俺たちは証明してきたと思うし、お互いが試し試しにできた時代だね。

――2ndアルバム『SEVEN DIMENSIONS』のCDパッケージもホログラム加工のシールになっていてビックリしました。

TwiGy CDのアートワークに特殊加工のラメ入りのキラキラしたものを使いたいとか、ココナッツの匂いをつけたいとか、結果的にすべて実現するんだけど、パッケージも含めて何か新しいことができないかと模索してた。クリエイティブ・コントロールをそこまで任せてくれていたっていうのが、すごく良かったと思う。でも、俺のやることが新しすぎてレコード会社の偉い人たちの間ではちょくちょく問題になってたみたいだけど(笑)。モンキーパンチに絵を描いてもらったり、小林克也さんにスネークマンショーをやってもらったり。峰不二子ちゃんに参加してもらったり、そういうのがすべて叶ったのは良かったけどね。子供の時の夢が叶った感じ。






――夢が叶ってしまった後、まさに今はどういう感じなんですか。

TwiGy 今は契約みたいなものがなくなったから、やりたいようにやれるようにはなった。他のアーティストとも仕事がやりやすくなったしね。

B-Yas レコード会社のディレクターに言われて何かをするのではなく、今までのTwiGyのキャリアを理解してくれて、音を求めてくれる人。そういう人たちと関係を深めてやれればいいなと思ってます。

TwiGy スモールサークル、ビッグドリームの時代だと思うし、あんまり関係ない人たちは中に入れたくなくて、知っている人たちと分かっているものだけやりたい。そうすることで研ぎ澄まされたものができるだろうし、雑味のない純粋なものが生まれるだろうし、その中で皆と繋がりたいと俺は思ってる。

――なるほど。だからこそのクラウドファンディングなんですね。今は福岡に住んでるんですよね?


TwiGy そうだよ。福岡を拠点にして、5年くらいかな。沖縄にもこないだ行ったし、全国いろんなところに行ってライブをやったりDJをしたりしてる。福岡では曲作りやレコーディングをしてることが多いね。

――東京にいた頃と比べてどうですか。

TwiGy 東京でライブをしながら曲を作るのとは違うね。こっちの方が余白が大きい気がする。でも、それが今の俺には必要だから。

――ライフスタイルそのものも変わりますか?

TwiGy そうだね。食事も含めて。東京にいると日が沈むのも早いし、クラブに行ったり、スタジオ入ったりとか、夜から朝にかけての仕事のサイクルになってたけど、それが引っ越したことで普通に戻ったかな。で、他の人の仕事をちょっと手伝うようになって、普通の社会人とも付き合うようにもなった。東京では自分の音楽の仲間、もしくはそこに携わる人としか接してなかったから、フラットな状態で人と話せるような状況ではなかったんだ。でも、福岡は自分をフラットにさせてくれて、TwiGyっていうものが無い状態での俺がいることで、いろいろとやりやすくなっている。頭がクリアになるよね。それらを今後、新しい作品にどうやって整理して落とし込んでいくかってところに、今はさしかかっているところです(笑)。

――新譜の完成、楽しみにしてます!

TwiGy アイデアもパンパンの状態なので、あとは皆さんのお力が必要です。きっと自分が想像したものを上回るものが出来上がってしまうから。過去の作品を踏まえて、また新しいものを出せる時が来たんだなと思ってるので、よろしくお願いします!

インタビュー・文:muevo編集部


【TwiGy】音源制作キャンペーン

https://www.muevo.jp/campaigns/1171



TwiGy

80年代後半からラップをはじめ、その独特の声とフローだけではなく、ファッションやスタイルでもヘッズたちを魅了して止まない文字通り日本語ラップのオリジネーター。1990年には、STEVIE WONDERのJAPAN TOURで日本語のラップで参加。1993年には、米TOMMY BOYよりリリースの「PLANET RAP [SAMPLE OF THE WORLD]」に日本代表で参加。日本のヒップホップ史上で、BEAT KICKS、MICROPHONE PAGER、雷のメンバーとして、最も重要な役割を果たしてきた。90年代に入ってからは、ソロとして数々のコンピレーション等に楽曲を提供。96年には日本語ラップの金字塔とも言うべきクラシック、LAMP EYE「証言」に参加。98年にはメジャー1stソロ・アルバム『AL-KHADIR』をリリース、2ndアルバム『FORWARD ON TO HIPHOP SEVEN DIMENSIONS』からはセルフプロデュースも始め、常に斬新なアイディアで聴くモノを飽きさせない作品を発表し続けている。また、99年にはフジロック・フェスティバルに初の日本人ラップ・アクトとしてRINO LATINA IIと共に参加。ハードコア・ラップだけでなく、ACO、Keyco、bird、SUGAR SOULなどの女性ヴォーカルとの共演で多くのメロウな楽曲を残している。2002年4月に4枚目のアルバム『余韻』をリリース。2003年3月に新曲「その先の向こう」を含むベスト盤をリリース。2003年には遂に、半ば生きた伝説となりつつあった雷をRINO LATINA II、YOU THE ROCK★、G.K.MARYAN等と共に、本格的に再始動開始。2004年4月にはKAMINARI-KAZOKU.のフルアルバム『330 more answer no question』をリリースし、再びシーンに衝撃を与える。2005年7月にはR&BシンガーHi-Dとのコラボレーションアルバム『LOVE or HATE』、2006年4月には初のPV集『THING TWICE』、5月には3年半ぶりとなる5thアルバム『TWIG』をリリース。精力的に活動と音楽の幅を広げていく。2007年3月には、アメリカの鬼才プロデューサーPREFUSE 73とのコラボレーションアルバム『akasatana』をリリース。TWIGYの新たな1ページが展開された。2008年7月にリリースされた『Baby’s Choice』では、TwiGy自身でもトラックをプロデュース。自らの音楽世界を自由に表現した。また、同時期にDJtoothache名義でDJとしても活動を開始し、これまでに4つの作品をリリース。常に時代の先端の音楽だけでなく、過去の良曲も紹介し続けているTwiGyのミックス・センスはClubだけではなく、CafeやBarなどにもフィットする選曲で好評を得ている。2011年にはJazzy Sportから、Mitsu the Beats、grooveman Spot、BOTTOM FLYを起用しNeo Soul / New Jazzシーンをも沸かせた『Blue Thought』をリリース。そして、福岡に活動の拠点を移してから福岡のトラックメイカーMOITOとともに制作した『Suck My Trap』を2015年に発表。2016年5月には初の自叙伝『十六小節 』を刊行した。

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