大阪市淀川区にある町十三(じゅうそう)。19歳から22歳の四年間、僕はこの町で暮らすことになった。


十三駅は大阪最大のターミナル梅田駅の隣りということもあって、立地や交通の便はとても良い。だが、飲み屋を中心とした歓楽街であり、その決して良いとは言えない治安から、暮らすには不人気の町と言えた。僕は無知と怠慢から、町の情報をまったく調べずにこの十三に家を決めた。


僕が育った町は神戸の片田舎だった。都会、港町という「神戸」のイメージからはほど遠く、治安しか取り柄の無い町だった。大人たちは不良が発生しない環境を必死に作ろうとしていた。23時に町唯一のコンビニは閉まり、常に父兄や警察の巡回があった。もはや治安を良くするためなら、いかなる文化も施設も断絶しそうな勢いだった。自動販売機一つを設置するのに、PTAやら自治会やらの会議がいくつも必要だったと聞いたことがある。TSUTAYAができるまで20年近くかかった。


そんな保護に保護を重ねた、無菌室のような環境で僕は育った。それがいきなり18歳の4月になった瞬間、歓楽街での一人暮らしだ。温室からアフリカのサバンナに放り出された気がした。とてもつらかった。


だが十三で暮らした最初の1カ月、18歳の4月のことは今でも忘れられない。暖かくなりはじめ、町には新生活に胸を躍らす学生や新社会人があふれていた頃だった。

地元の駅から市営地下鉄で三ノ宮駅まで30分。そこから阪急電鉄に乗り換え、28分で十三に到着する。三宮から十三に行くまで、いくつかの河川を通る。車窓から覗く草木の緑と空の色がすごく綺麗だった。

十三に着くと、駅の前には何人もの酔っ払いが寝転んでいた。遠くから聞き取れない怒鳴り声もした。

パチンコ屋の騒音が外にもれまくっていて、耳が割れそうだった。ゴミと吐瀉物が散らばる地面の先には、おびただしい数の自転車が並んでいた。さっきまでの青く見えた空が灰色がかって見えた。実際に灰色で、次第に雨が降ってきた。

家を決めに来たときはこんなに汚い町に見えなかった。大学紹介の不動産屋に、車で連れてきてもらったからだろうか。

とりあえず、僕は駅の売店で傘を買い、近くのラーメン屋に入った。朝から何も食べていなかった。このときに食べたラーメンの味をまるで覚えていない。数分後に起きる事件のインパクトが強すぎた。

店を出ると傘立てに置いていた傘を盗まれていた。衝撃だった。僕の育ってきた温室環境からすると「傘を盗まれる」ということは大事件だった。

傘一本が惜しい惜しくないという話ではなく、「誰かの物だけど、俺が雨に打たれるのは嫌だ。コイツが困ってもいいから盗もう」という絶対的な悪意が、すぐそばにあったという事実。そして、それが自分自身に切っ先を向けたことに、僕は恐怖した。

傘一本で血の気が引いたのは、人生後にも先にもあの一度きりだ。今、財布を盗まれても、あの一本の傘が無くなった心的ダメージには及ばないだろう。それぐらいあのときのインパクトは大きかった。

おそらく傘を盗んだ人は僕が泣こうがわめこうが、心を痛めない。目の前で僕が死にそうになっていても、助けないのではないかとさえ思う。その事実が怖かった。僕を守らない人も、この世には存在するということが具現化した瞬間だった。

僕はいつも心配され、保護され、危険にあわないように大人に守られてきた。そんな僕が初めて世間の荒波に触れたのがこの「十三傘盗難事件」だった。

その後、僕はその町で暮らし、人生史上最悪レベルの貧乏生活に突入する。アルバイトもなかなか受からず、受かっても適合できずに苦しんだ。ピンクチラシを配布するアルバイトすら、まともにやれなかった。社会悪のような仕事すら人並みにできない自分を呪った。


一日の食費を800円までとした。限りある食費を野菜には使わなかった。空腹を満たせないからだ。コストパフォーマンスの概念は腹持ちしか無く、野菜が不足した生活を送った。ビタミンが不足して、うつになっていた。


しばらく、路上ライブとメイドカフェでギターを弾いて歌う活動のみで生活していた。メイドカフェの仕事は路上ライブをしていたら、オーナーからそこで歌ってくれと頼まれたのでやったが、一回5000円貰えたので、貴重な収入源だった。

路上で歌う活動は日常化していた。日付をまたいでから、ゴミの散らばる道ばたにあぐらをかいて歌うのは楽しかった。小綺麗な地元に住んでいた頃の僕が見たら腰を抜かしそうな絵面だったと思う。

だが、妙にしっくり来た。それまで嫌いだった汚く野蛮な町と、そこに住む人々の魅力は一度座り込まないと気付かなかった。自転車のサドルよりも低い位置から目を凝らさないと、見えない星がたくさん瞬いていた。

酔っ払いは1000円と1万円を間違えて僕のギターケースに放り込んだ。ニューハーフにギターを貸したら、僕よりもはるかに上手かった。貧しい祖国の話をしてくれるアジア人が何人もいた。路上で知り合った女の人たちと何度か恋愛関係になった。

話してみると、それぞれの人生があり、必ずしも汚れたものではなかった。むしろ、僕の地元では聞けないようなドラマが人の数だけ存在した。

彼らの歌もいくつか書いた。書かざるを得ないような歌がいくつもあった。今思うと、あの人たちの経験を、あのとき聞かせてもらったのは、お金に換えられない価値があったんじゃないだろうか。

十三では苦しいこと、理不尽なこともたくさんあった。それでもあの町で暮らしてよかったと思う。素直に感謝している。僕がずっと地元で暮らしていたら、おそらく音楽を続けていられなかっただろうから。

いろいろな種類の「正しさ」が混ざり合ったあの町で、僕は僕にとっての「正しさ」を探し続けた。あのときに味わった「町に問われ、それに答える」という経験は、僕の人格の核となる部分を形成してくれた。

先月、遠征のついでに久しぶりに寄ってみたが、以前よりも綺麗になっていた。あの頃より空の色も青く見えた。

文・平井拓郎(QOOLAND)




QOOLAND
平井 拓郎(Vo, Gt)
川﨑 純(Gt)
菅 ひであき(Ba, Cho, Shout)
タカギ皓平 (Dr)

2011年10月14日結成。無料ダウンロード音源「Download」を配信。2013年5月8日、1stフルアルバム『それでも弾こうテレキャスター』をリリースする。同年夏、ロッキング・オン主催オーディション RO69JACKにてグランプリを獲得。ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013に出演した。その後もROCK IN JAPAN FESTIVAL 2014、COUNTDOWN JAPAN 14/15等の大型ロックフェスに続けて出演。2015年夏、クラウドファウンディングで「ファン参加型アルバム制作プロジェクト」を決行。200万円を超える支援額を達成し、フルアルバムの制作に取りかかった。2015年12月9日、2ndフルアルバム『COME TOGETHER』発表。2016年8月6日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016に出演。 HILLSIDE STAGEのトリを務めた。

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