地球人なら、誰にでも当てはまる。人生で一番ダサイ季節は、まちがいなく13歳から15歳だ。「0歳から12歳まで」と、「16歳から朽ち果てるまで」が、かすむほどにダサイ。しかし、くぐり抜けないといけない激動の季節、それが中学時代だ。そんなダサイ季節が、イマの自分の根っこを作っている。それもまた、紛れもない事実だ。


僕の中学校は、ふたつの小学校の集合体だった。僕の小学校と、隣り町の小学校を合わせた進学先で、一学年は10クラスもある、いわゆるマンモス中学だ。中学校にあがるとき、あなたはどうだっただろうか。未来への期待に満ちあふれていただろうか。それとも、新しい課目や部活への不安で、胸がいっぱいだっただろうか。


僕は、中学進学が、嫌で嫌でしかたなかった。「6年間、一緒に過ごしたメンバーに、何もよそ者を入れる必要はないじゃないか。今までどおり、同じメンバーで仲良くやっていればいいじゃないか」と思っていた。英語もやりたくなかった。先輩にコキ使われる部活動も、怖かった。新しい環境のすべてが、プレッシャーだった。


しかし、小学校からの友達たちは、僕とずいぶん違っていた。見たことのない顔のクラスメイトと、どんどん仲良くなった。小学校から続いた、顔なじみばかりのコミュニティは無くなり、新しいコミュニティが次々と増殖した。


知っている顔と知らない顔が、一緒に弁当を食べていた。知っている顔だけで固まっているグループは、数えるほどだった。先生も積極的に、クラスをひとつにしようとしていた。「小学校が違う者同士」というルールで、2人一組を組まされたときもあった。


部活は、小学校から続けていた野球部に入った。部活も、教室と同じだった。練習は、柔軟体操、キャッチボール、筋トレと、二人一組にならないといけないものばかりだった。野球は好きだったが、見知らぬ顔のチームメイトとする、キャッチボールは怖かった。顔なじみと、見知らぬ顔が合わさって、得体の知れない巨大な何かが作られようとしていた。好きな野球が、次第に嫌いになっていった。


凄いスピードで、僕の小学校と、隣り町の小学校は、混ざり合った。よく遊んでいた友達は、隣り町ばかりに行くようになった。彼と僕が遊ぶ回数は、次第に減っていった。


文化祭や体育祭、中間テストに期末テスト。制服着用に、部活動と教科担任制。「初めて」が次々とやってきた。そして、高速で過ぎ去った。「やり方が分かった頃には、もう遅い」が連続した。あらゆる遅れは、ヤミ金の金利のように膨れ上がって、取り返しがつかなくなった。


季節は巡って、春夏秋冬が一巡した。


教室内と部活のコミュニティは、完全に一体化していた。だが僕は、いつまで経っても、隣り町の小学校出身の人たちとは、仲良くなれなかった。人間関係という遅れは、取り戻せなかった。


順応できない環境は、ジワジワと僕を苦しめた。口を聞ける人間が、学校にいなくなった。教室は水槽だった。時間が経つにつれ、水かさがあがって、息ができなくなった。エラ呼吸ができないのに、水中で暮らすイルカやクジラになった気分だった。環境に応じてうまく進化してきた、彼ら海洋生物の方が、僕よりマシだった。海洋生物たちは、僕と違って、絶滅しないように生体を順応させた。


僕は中学2年の夏に野球を辞めた。学校にも行きたくなくなった。僕は順応できず、夏に滅びた。


自分の未熟さを棚に上げて、グレた。悪い仲間がいるわけでもなく、大げさに悪いことをするわけでもない。ただ、すべてにNOと答えていた。反抗だけにアイデンティティがある、中途半端でバカな、やさぐれたガキになった。だけど、バカなりに必死だった。気持ちがヘシ折れないように、僕は反抗していた。


不満や、葛藤。言いたいことを吐き出したくて、しかたなかった。小説『バトル・ロワイアル』がキッカケで、作詞作曲という手段に手を出した。


毎日、歌を作り始めた。大学ノートに、曲を書きまくった。おびただしい数の文字とメロディが、ノートに並んだ。心に、たまったものを吐き出しまくった。歌を作るのは、快感だった。言っちゃいけないことも、「音楽」という免罪符をかませば、許される気がした。言えない弱音や本音も、ノートの上では、吐き出すことができた。


自分が本当は何を考えていて、どういう人間で、なぜ不満なのかが、書いていくうちに分かってきた。僕は、音楽を通して進化しようとしていた。自分が生存するための、呼吸法を覚えようとしていた。


ひとつの歌を完成させると、手が震えるほどのドーパミンが吹き出た。「生まれてきたイミ」みたいなものを、直接触っているような多幸感があった。もっとたくさん歌を作りたかった。学校に行っている時間はムダだと思った。


登校の数が激減した。出席数と反比例して、歌が書き上がっていった。書き上がる数に比例して、作曲術は研磨された。成績は落ちたが、それでよかった。


僕が音楽を始めたキッカケは、憧れのミュージシャンがいたわけでも、同級生にモテるためでもなかった。人生で一番ダサイ季節に、爆発しそうなほど、膨れ上がったバカさだった。そして、それを撒き散らしただけだった。だが、バラ撒きまくった伏線は次第に大きくなった。その伏線を回収するために、今日も歌を作っている。


文・平井拓郎(QOOLAND)


QOOLAND

平井 拓郎(Vo, Gt)

川﨑 純(Gt)

菅 ひであき(Ba, Cho, Shout)

タカギ皓平 (Dr)


2011年10月14日結成。無料ダウンロード音源「Download」を配信。2013年5月8日、1stフルアルバム『それでも弾こうテレキャスター』をリリースする。同年夏、ロッキング・オン主催オーディション RO69JACKにてグランプリを獲得。ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013に出演した。その後もROCK IN JAPAN FESTIVAL 2014、COUNTDOWN JAPAN 14/15等の大型ロックフェスに続けて出演。2015年夏、クラウドファウンディングで「ファン参加型アルバム制作プロジェクト」を決行。200万円を超える支援額を達成し、フルアルバムの制作に取りかかった。2015年12月9日、2ndフルアルバム『COME TOGETHER』発表。2016年8月6日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016に出演。 HILLSIDE STAGEのトリを務めた。


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