
杏沙子は、群を抜いたポップセンスとチャーミングな歌声を併せ持つ鳥取県出身の女性アーティストである。
作詞家・松本隆に影響を受けた表現力豊かな詞世界を超絶キャッチーなメロディーに乗せた楽曲が高く評価されており、シンガーとしてだけではなくソングライターとしても確かな実力を持つ。
2016年にリリースした『アップルティー』はYouTubeにて公開中のMVが993万再生を記録(2025年7月現在)。
YouTubeにおいて40本の投稿動画総再生回数が3400万回を突破(2025年7月現在)。
2020年リリースの『見る目ないなぁ』はアップフロントクリエイト所属のシンガー鈴木愛理にカバーされている。
「リアルで体験したことをベースに作品化していくことが殆ど」という彼女が紡ぐ世界は、現実の風景をそのまま切り取ったかのような鮮度とリアリティに溢れている。
さながら音を使ったフォトグラファーであり画家のようである。
その瞬間が連続性を持った”時間”を感じさせてくれることから、映像家的であるとも言えるかもしれない。
“音”でしかないはずの楽曲から風景が見え、香りが届き、温もりを感じ、甘さや酸っぱさ苦さを感じる。
聴覚だけではなく五感を通して広がっていく世界だからこそ、作品への感情移入度・没入度が極めて高い。
自分の住んでいる世界がいつのまにか楽曲の世界とすり替わってしまったのではないか……そんな錯覚に陥るほど。
また、”我々が存在する世界”を感じさせながらもその中のごく身近な”小さな風景”や”場面”をクローズアップして届けてくれる作品が多いのも大きな特徴。
それも作品に親近感を抱きその風景に入り込んでいきやすい大きな理由であろうか。
パラレルワールドへのチケット発行人……それが杏沙子なのかもしれない。
各作品のテーマに近い経験をしたことがあるリスナーは過去の思い出の映写機のように、そうでないリスナーは一本の映画を見るように……十人十色の方法で楽しむことができるのも彼女の楽曲ならではだ。
メジャーレーベル/事務所での経験を経て、現在は完全フリーランスとして活動中の杏沙子。
「私は元々自分の思ったことや体験してきたことをきっかけとして、そこから膨らまして曲を作って歌うタイプなんです。なので生きることがそのまま音楽に繋がる感じで。フリーになってからすべての活動において立案も準備も手配も全て自分でやらなければいけなくなったので、正直大変な部分も沢山あります。でもその分、より音楽活動と生きることが密接にリンクするようになって、大袈裟かもしれませんが今では”生きる=音楽”くらいになったと言っても過言ではないかもしれません」と語る杏沙子。
そんな彼女だからこそ、以前にも増してリアリティを持った”命”の吹き込まれた作品を生み出すことができるのであろう。
同時に「一人で色々と動かなきゃなんですが、でもすべて一人で成し遂げてるわけではないんです。事務所やレーベル所属時の経験や人の繋がりがあるからこそ実現できていることばかりで。周りの優しい方々に支えられて何とかなってます。本当に感謝してもし切れない」と謙虚に、周囲の人々への感謝の思いを素直に言葉できる誠実な人柄を持っているのも印象的。
そんな彼女だからこそ、聴く者の”心”に響くような温かい音の魔法をかけることができるのであろう。
杏沙子が放つ”リアリティの魔法”が、次はどんな世界へ誘ってくれるだろうか……ワクワクが止まらない。
1. 絵
2025年7月27日にリリースされたばかりの新曲で、人の歩みを”絵”に例えた作品。
杏沙子の楽曲の中でも特に”視覚”を刺激する要素の強いテーマとなっており、聴いているだけで風景が見えてくるストーリー性の強い絵本のような歌詞、サウンド、Lyric Movieが印象深い。
初めて画用紙の前に座った幼少期は、誰しも人の目を気にせず思うままに描きたい絵を描いている。
しかし気づけば大きなキャンバスの前に立ち、「認められたい」という思いから他人の評価を気にした絵を描くようになる。
そこから”自分の絵”は消え、他人の色が重ね塗りされ誰の絵なのかすら分からなくなった作品が残る。
真っ白だったキャンバスは、様々な絵具が混ざりいつしか真っ黒になる。
だがある日その黒いキャンバスに垂らした絵具が星になり、真っ暗闇のキャンバスは星空に変わる。
他人の色で塗り固められたはずのキャンバスに、いつしかまた自分の絵が生まれる。
そんな物語を描いた本作には、「思い悩み分からなくなることがあっても、その時間は決して無駄ではない。明日何かを描くための礎になる」という前向きなメッセージが込められている。
メジャーレーベルでの活動、フリーランスでの活動など様々経験を積んできた”今の杏沙子”だからこそ描けた曲と言えるであろう。
現在進行系で思い悩んでいる人、目指す先が分からなくなってしまった人にとって大きな勇気を与えてくれる温かい作品だ。
Lyric Movieにおいては歌詞をただそのまま映像化したものではなく、複雑でこじれた人間模様を描いた内容に要注目。
真っ白いキャンバスの様な空間で舞い踊る、赤と青の衣装をまとった二人を見下ろす形で進む展開は非常に前衛的で斬新。
キャンバスが少しづつ黒に染まっていく様、その黒いキャンバス上で以前とは違った輝きを放つ二人の表現に引き込まれる。
シンプルなストーリーテーリングとしてのビジュアルではなく、楽曲の奥深い部分を映像化した「表現」としての色合いが濃い内容となっている。
杏沙子本人の登場場面が極めて限定的なのも大きな特徴で、だからこそインパクトが大きく物語の展開変化を心に直接語りかけられるかの様な視聴感だ。
「元々歌うことが好きなだけで、曲を作ることは得意ではなかった」という彼女の大きな進化を感じることのできる、クリエイティブな要素溢れる会心作である。
なお本作ジャケットは杏沙子自身が絵具で描いたものとなっておりこちらも必見。
音源配信は→こちら
2. 瞬間冷凍ラブ
2023年にリリースされたフリーランスとして初の作品。
TikTokで大きな注目を集める人気曲となり、Spotifyのランキングでも11位にチャートインした。
「恋が始まる瞬間」にだけ存在する至高のトキメキを冷凍保存して永遠に味わいたい!という青春真っ只中の甘酸っぱさに溢れる少女漫画のようなテーマとなっている。
「最初に”瞬間冷凍”というワードが突然浮かんでそこから世界が広がっていって生まれた曲」とのことで、感覚的に楽しめる非常にキャッチーなメロディや歌詞が特徴。
通勤通学時、一人で学習や仕事をしている時、家事をしている時etc……日常の様々な場面で無意識につい口ずさんでしまう曲だ。
そのサウンドはポップ爽やかキラキラ。疾走感溢れるアップテンポなグルーブが気分を盛り上げてくれる。
ひとワードごとに違った表情が込められたエモーショナルな歌声も素晴らしく、その表現力は出色。
「フリーになって締切が無くなった分納得行くまで試行錯誤を重ねられた」という環境の変化をプラスに変えての力作となった。
コンビニを舞台に”恋に落ちる瞬間”を描いたMVも、非常にポップで爽やかで少女漫画原作のラブコメドラマのようで非常に楽しい。
前述の”絵”は視覚を刺激する曲と紹介したが、聴いているだけで口の中に甘酸っぱさが広がる味覚を刺激する曲であり、その爽やかさと”瞬間冷凍”のワードでなんだか涼しくなる触覚を刺激する曲でもあると筆者は感じている。
特に暑い夏に聞きたくなる作品だ。
3. 花火の魔法
2020年にリリースされたメジャーデビューEPのタイトル・チューン。
杏沙子自身が橋の下で親しい友達と花火で遊んだ思い出をもとに生まれた楽曲。
ひとつの小説のような作品で、その登場人物を演じるかのような”名演”の歌声は必聴。
「何か印象的なことがあったらすぐメモして残しておく」という彼女の”メモ魔”としての特性が活きたのか、その描写は非常に鮮明で臨場感と高揚感に溢れている。
件の友人との花火会の際、手持ち花火を「魔法の杖〜!」とはしゃいで遊んだという彼女。
幻想的でその空間をある種の異世界に変えることができる花火という名の魔法。
そして様々な世界に誘ってくれる杏沙子の歌の魔法。
正に鬼に金棒……もとい杏沙子に魔法の杖だ。
世界の中でここだけの暑い暑い特別な空間で燻り燃え上がり揺さぶられ、だが火を付けることも燃え尽きることもできない主人公の感情が、聴く者の心に刺さり焦がしていく。
彼女の作品の中でも特に感情移入度の高い作品ではないだろうか。
1サビ2サビ間でのワードの僅かな変化にも注目しながら、主人公の心情にどっぷり入り込んでぜひ聴いていただきたい。
明るくキラキラとした花火のようなギター&鍵盤サウンドが印象的なテンポ早めのアッパーチューンであるが、サビの終わり〜間奏の部分や落ちメロは静かで線香花火のように儚い(主人公が臆病になってしまう瞬間なのかもしれない)。
本作はカラフルな花火の描写が視覚を刺激してくれる作品で有り、花火が燃える匂いや夏の終わりの香りを感じさせてくれる臭覚を刺激する作品でもあるのではなかろうか。
最後に、杏沙子自身の今後の活動について語ってもらった。
「フリーになってからはより生きることが音楽で、音楽が生きることで。
自分の体験をもとに曲を作ることが殆どなので、ここ最近は楽曲が私のエッセイみたいになりつつあるのかなって思っています。
環境が変わっても変わらずついてきてくださるファンのみなさんには言葉で言い表せないくらい感謝しています……本当に本当にありがとうございます!
マイペースな私ですが、応援してくださるみなさんがいるからこそ大好きな歌を歌い続けられています。
誰もが楽しいこと辛いこと様々な気持ちに出会って、紆余曲折を経て今があると思います。
良いことも悪いことも乗り越えてたどり着いた着地点や自分の手で手に入れた答えって、かけがえのない、キラキラに輝いた宝物だと思うんです。
私が私なりに生きてきて見つけた宝物を、音楽を通してみんなにシェアできたら。
それが一番の目標です!」
「たくさんの方に各々の楽しみ方をしていただくために、ホールツアーはいつかやってみたいと思っています。立ってノリノリで楽しみたい方もいれば、座ってしっとり聞き入りたい方もいると思うから、そのどちらも実現できるのが座席のあるホールでのライブかなって。
東京のライブだけだとなかなか会いに来られないという方もいらっしゃるので、私の音楽を聴いてくださっている方の街に会いに行って、色々なホールで私の歌を聴いていただけるように頑張っていきたいです!」
ファンへの感謝の想いと今後の目標を語ってくれた杏沙子。
天井の高いホールで、天に向かってどこまでも伸びていくかのような彼女の歌声を聴ける日が今から待ち遠しい。